Column コラム

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

© CEBU navi SAKURA | vol.8 Mar.-Apr.2017

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

19世紀末、スペインからの独立に多大な影響を与え、今もなお、フィリピン国民の心に寄りそう。

セブシティから車で1時間30分ほど南下したところにあるカルカルシティ。その広場で白く輝くリサール像。台座には古きセブ語で1927年12月30日と刻まれている。

多くのフィリピン人に 誇りと自信をもたらした リサールの生き方

国が歴史的な変革を迎える時、必ずそこには鍵となる偉人がいます。日本では1868年の明治維新に向かって、多くの若者たちが躍動しました。行動派の彼らに多大な影響を与えたのが吉田松陰(1859没29歳)です。彼はリサールのように自らの命を捧げ時代を大きく隆起させました。リサールが最期の詩をしたため命を捧げたあと、フィリピンも大きく独立へと突き進みます。それは吉田松陰の最期と通じるものがありました。

1861年6月にフィリピンで生まれたリサールは、5歳で読み書きができ、その後、幸運なことに高等教育の場にも恵まれ大学へと進学しました。21歳の頃、スペインに渡りマドリードの大学に入学。薬学と医学免許を取得した若き日の彼は、子どもの頃から「フィリピン人は教育の場が与えられていないだけ」と感じながら生きてきました。

その思いが結実した作品、それが「ノリ・メ・タンヘレ」(我に触るな)でした。1887年、26歳になった彼は、この小説で、いかにフィリピン人が激しく支配されているかをスペイン語で広く知らしめました。

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

1861-1896 ホセ・リサール
リサールは眼科医になっただけでなく、彫刻、絵画、教育、農業、歴史、小説など多彩な才能を持っていた。多くの詩を残し20ヶ国以上の言語を習得。建築や経済に精通し、演劇や格闘技、フェンシング、ピストル銃などの心得もあったという。

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

リサールが使っていた書籍。キリスト教を学んでいたことや、文学と芸術を愛していたことなどがわかる。

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

南フィリピン大学の博物館には、リサールと関連する直筆の手紙や、彼が実際に着ていたというコートなどが展示され、当時の様子を垣間見ることができる。

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

セブ市にある南フィリピン大学の博物館には、リサールに関する当時の書籍や新聞、記念切手などが多数所蔵されている。記事タイトルを見ると、教育者としてのリサールの姿や、リサールの最後の日記や手紙、科学者としてのリサールについてなど多岐にわたる。後世に生きるフィリピン国民への影響の大きさ、幅広さがそれらの記事からも読み取ることができるだろう。リサールの伝記本や、彼が記録した回顧録などの書籍も展示。リサールは多くの切手にもその肖像が採用され、1970年には1ペソコインにその端正な横顔が描かれている。

日本での恋のゆくえ

リサールの勇気ある告発は、多くのフィリピン人の誇りを呼び起こすと同時に、彼を明確に遠ざける人も出てきました。しかし、これがきっかけとなり、フィリピン人の独立心に火がついたことは間違いないようです。
 フィリピンに戻っていたリサールは、1888年2月末、再びヨーロッパへ渡航する途中、日本に立ち寄ります。もともと数日の滞在予定でしたが、日本文化や人々に魅了され、4月中旬まで日本を離れることができませんでした。このとき彼は「フィリピンは日本と緊密にならなければいけない」という言葉を残しています。彼は来日してすぐ、武家育ちの「おせいさん」を見初め、おせいさんは彼の境遇に思いを寄せました。日光や箱根へ出かけたときはガイドと通訳をし、彼女は彼に、日本語、墨絵、日本文学や歴史を伝えました。すでに20カ国以上の言語を習得していたリサールは、日本語もすぐに身につけ、おせいさんと交流をはかったといいます。それは淡い恋だったのかもしれません。リサールは日本の歴史で特に「赤穂浪士」の歌舞伎に感動したといいます。主君のために命を捧げる話は、現代でも、内外問わず共感を呼び、赤穂浪士のお墓の参拝者は半数が外国人だといいます。

決して消えることのない フィリピン独立への炎

日本のスペイン公館から、開業医として残ってほしいという要請を受けていたリサール。しかし、彼を待つ同志のために日本を離れ、アメリカからヨーロッパへ渡り、志を貫くと決めました。そこで第2弾小説「エル・フィリブステリスモ」(反逆)を発表。こちらもスペインの圧政を描き出し、フィリピン独立の機運をさらに高めました。フィリピンを統治していたスペインの目にもとまり、彼はすでに無視できない存在となっていました。

とはいえ、リサールは武力による独立を画策したわけではありません。その主張は、フィリピンがスペインの一部であること、スペイン政府議会へのフィリピン代表者派遣、フィリピン人聖職者養成、言論の自由、法律的平等などを求めたにすぎませんでした。こうした平和的なアプローチが、今を生きるフィリピンの人々に共感を与えているのかもしれません。

同時代の日本の文豪といえば、夏目漱石や森鴎外が有名です。作風は異なりますが日本でも名作と呼ばれる作品が多く輩出された時代でした。

31歳のとき、家族や友人が反対する中、ヨーロッパからフィリピンへ戻ったリサールは逮捕され、ミンダナオで4年間の流刑生活を送ります。この間、ジョセフィンという女性と結婚を試みましたが、教会から拒絶され実現しませんでした。その後、キューバへ医者として渡ろうとした同時期、フィリピンでは武力による独立運動が盛んとなり、無関係のリサールはまたも逮捕されます。キューバで医療奉仕すれば処刑は取り消すといった提案を受け入れず、フィリピンのために命を捧げることにしたリサールは、1896年12月30日、最期の詩を遺し、35歳という若さで他界。この姿が、さらなる独立への機運を蜂起させたことは見るまでもありません。

後にスペインからの独立を果たしますが、統治はアメリカや日本に変遷し、本当の意味で独立を果たしたのは半世紀以上先の第二次世界大戦後。しかし、リサールがフィリピンの独立に大きな影響を与えたことは、ほとんどのフィリピン国民が知っています。

Dr. Rizal’s family

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

父方のメルカド家(Mercado)は、中国からフィリピンに渡ってきた中華系。母方のアロンソ家(Alonzo)は、スペイン人とフィリピン先住民の混血家系。リサールは11人兄弟の7番目に誕生した。多彩なリサール少年は言語だけでなくスケッチや粘土遊びなどの才能もあったという。
1946年、戦後に兄弟の中でフィリピンの独立回復を見届けたのは、10番目の妹トリニダッド・メルカドだけである。彼女はリサールの身の回りにあった品々を南フィリピン大学に寄付した。これらは国宝級の品だが、リサールの家族から直接寄付されたため、大学が所有している。
リサールの姉となるルシア・メルカドは創設当時の南フィリピン大学副代表の妻だった。この大学はリサールと縁が深く、関連の所蔵品が多い。その数は、マニラのリサール記念館を除けば、最大級となる。

ルシオ・A・パルモネスさん
品質保証
南フィリピン大学
【コメント】
独立(自由)に向けて、大きく刺激した人物です。愛を持って、教育や本を通しフィリピン人の尊厳を主張し続けました。フィリピン人は彼を「国民的英雄」と呼んでいます。独立への大事な一歩を踏んだ国父です。彼は自由獲得への支えでした。

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

南フィリピン大学にある博物館内。リサールに関する多くの展示品から、国民的ヒーローのリアルな人間像に近づくことができる。※来館には事前の予約が必要。

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

こちらはセブ市内にある公立図書館「リサール記念図書館&博物館」。オスメーニャ通りにあり、州庁舎やオスメーニャサークルからも近い。ここにもリサールやおせいさんに関する書籍がたくさんある。

国民的ヒーローDr.リサールに会いに行こう!

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

Dr. Rizal at the plaza in Bantayan Island
フィリピン国内にはもちろん、リサールが愛した日本にもモニュメントがあります。

東京、日比谷公園で 未来を見つめるリサール

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

たくさんのフィリピン人に愛され続けるリサール。フィリピン国内の小中学校、高校、大学の歴史授業では必ず取り上げられています。「武力ではなく知力でスペインに挑み、信念を貫いた」「母のために眼科医を目指し、本当に眼科医となって治療した」といった好意的な意見や、「いく先々で女性と出会い、とてもモテた」といった意見まで。中には「ヒトラーの父だった」とするトンデモない伝説まであります。多面的な意見や諸説が生まれるのは、フィリピン人にとって興味深い存在であるという証です。

多くの公立学校だけでなく、セブ州北部のバンタヤン島など離島のプラザにも彼の立派なモニュメントを見ることができます(左記上)。そして、東京滞在を記念したリサールのモニュメントは日比谷公園にも建立されています(左記中)。彼の命日となる12月30日は「ナショナルヒーロー・ホセ・リサールの日」として祝日のフィリピン。東京のフィリピン大使館でもセレモニーがあるようです。

3年後の2020年には東京オリンピック開催。東京へ行くことがあるなら、日比谷公園のリサールに会いにいきませんか。彼の愛した日本へ。彼はいつも、フィリピンと日本の良好な関係を願うよう静かに佇んでいます。

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

東京の日比谷公園内にあるリサール像は心字池のすぐ近く。リサールが滞在した東京ホテル跡地。1961年6月に建立。

独立を記念する マニラのリサール公園

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

リサールが最期の時を過ごした場所は今、独立を記念する「リサール公園」となり、毎日たくさんの人が訪れ、毎週末にはイベントが開催されています。マニラにあるその公園内にはリサール記念館があり「おせいさん」の肖像画を展示。リサール記念館のリサール像は、日比谷公園の像と同じく1961年に建立されたといいます。それは日本リサール協会によるものでした。

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

フィリピンの国父・国民的ヒーロー Dr.リサール

リサール公園のオープンエア公会堂(下記Map内⑩)では音楽、ダンス、劇、映画、ポップス・ロック、カソリックコンサートなど、毎週末、イベントが開催されている。

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